「木の子説法」
極貧の美人の描写がなかなか凄いです。着物がなくて古手ぬぐいで体を覆い、食べるものがなく水ばかり飲むので妊婦でもないのに腹が青白く膨れている色白の美人が、ただうら悲しく「−かなしいなあ−」
月岡芳年《奥州安達ヶ原ひとつの家》の半裸の妊婦のイメージをダブらせて、回想シーンを貧乏人たちが揃って逆立ちする滑稽というよりグロテスクな場面から関東大震災へつなげて閉じ・・・
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tokubetu/eventNov03/01_03.html
ラストでその美人が自分の乳首を噛み切って足の立たない我が子に血を吸わせるなど・・・やっぱりグロテスク。エロ・グロ・ナンセンスですが、美もあり悲もあり・・・です。
「城崎を憶ふ」(きのさきをおもふ)
紀行文ですが、ここにも城崎(きのさき)豊岡大地震という震災の影が・・・
「紅玉」
中途半端な終わり方の戯曲ですが、美人が虹に目をくれてやろうと指輪を掲げる「虹の瞳」の場面が気に入りました。
『そして、雪のようなお手の指を環(わ)に遊ばして、高い処で、青葉の上で、虹の膚(はだ)へ嵌めるようになさいますと、その指に空の色が透通りまして、紅い玉は、颯(さっ)と夕日に映って、まったく虹の瞳になって、そして晃々(きらきら)と輝きました。その時でございます。[・・・]』
「小春の狐」
波路(なみじ)という娘がいじましい・・・
『 薄色の桃色の、その一つの紅茸を、灯(ともしび)のごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ茸(きのこ)を頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。
「小松山さん、山の神さん、
どうぞ、茸を頂戴な。
下さいな。――」
真の心は、そのままに唄である。』
これも紀行文というか温泉巡りのようなもの。