後半を一気に見ました。こういう後半でかなりシリアスになるラブコメというのは、「天地無用OVA」「デュアル!」などのように割と好きです。
ただ最終話でまほろのクローン?が出てきてハッピー・エンドというのは嬉しい反面複雑です。
昔、ITCの「テラホークス」で地球を防衛する側の組織の司令官が敵の破壊工作で爆死したものの、司令官にはクローンが何体も用意されていて記憶もバックアップされていたのでめでたしめでたし・・・というエピソードがありまして・・・本当にそれで良いのか?と子供心に大きな疑問符を抱きました。
私の記憶ではTVに放映された子供番組で、クローン人間がこういう風に使われた例はそれまで無かったように思います。クローンがいるからって、レギュラーの登場人物が爆死したことには間違いないんだから「ガッチャマン」のジョーとか「ゲッターロボ」のムサシとか仲間が死んだら少なくともまる1話分くらいは喪に服するというか悲しんでもよさそうなものを・・・
自己同一性というものを個体の意識の連続と考えれば、自爆したまほろさんも爆死した「テラホークス」の司令官も死んでしまったわけで、(まほろはアンドロイドだけど)それはやはり取り返しのつかないこと、悲しむべきことでしょう。
もしも記憶のバックアップが本当に可能で記憶の連続性が自己同一性に等しいのだとすれば・・・「銃夢」のディスティ・ノヴァの死の軽視や「テラホークス」の脳天気も当然で、「まほろまてぃっく」の優の再会の喜びを素直に祝福できるというものですが・・・
たとえば私にそのようなクローンが用意されていたとしてもやっぱり自分が死ぬのは怖いでしょう。が、もしも私の彼女にそういうクローンが存在したとして、あるときオリジナルが死んでクローンが現れたとき・・・どうなんでしょ?最初は違和感や倫理的に自分自身を許せないという葛藤があっても最終的にはOKかも知れませんね。
結局、自分自身については意識の連続性が重要で、他人については記憶が連続していてこちらの話が通じればOKということで記憶の連続性さえ保たれていれば問題なさそうです(^^;)
ってことは「バカの壁」で「人間は流転する」「変化する」「一晩経てば別人だ」と養老先生が力説してもあまり意味が無いかもしれません。
スタニスワフ・レム「ソラリスの海」はその点(記憶を持ったクローン(のようなもの)を愛せるか)でかなり突っ込んで描いた名作でしたね。また読みたくなってきました。タルコフスキーの映画も良かったですが。ジョージ・クルーニー版はまだ見ていません。
ところで、あのまほろさんはセイント人なんでしょうか?それともリュウガのようなアンドロイドなんでしょうか?