- アーティスト: Johann Sebastian Bach,Paul McCreesh,Gabrieli Consort & Players,Magdalena Kozena,Susan Bickley,Julia Gooding,Deborah York,James Gilchrist,Mark Padmore
- 出版社/メーカー: Deutsche Grammophon
- 発売日: 2003/04/08
- メディア: CD
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直前にヘルムート・リリングのマタイ受難曲を聞いていたので、マクリーシュのを聴き始めたら、速い、軽い、聴きやすいのに驚きました。マタイ受難曲がこんなんでいいのかな?とも思ったんですが、聞いていると速さにはすぐに慣れるし、軽いのは合唱が小編成なせいだし、残響が綺麗なのでやがて気に入るようになりました。
とにかく綺麗なマタイ受難曲。
ところで、歌詞は中古で買ったヘルムート・リリングの「マタイ受難曲」(1978年発売80DC167-9)の対訳を読みながら聞いていたんですが、これって要するにマタイ福音書でイエスがユダに売られて処刑される様をドラマで見て憤慨しながらコメントする「ネット上のオマイラ」みたいなものですね(^^;)
イエスがやがて自分が捕縛されるときに弟子たちが自分は無関係ですとイエスとの関係を否定することになると予言すれば、「いや、俺達だったらイエスの元にとどまって庇う!」と言ってみたり、イエスが捕縛される場面になると「裏切り者のユダなんか地獄の炎に焼かれちまえばいいのに!」と叫んでみたり・・・それは結果として神の子だと世間が認めたからそういうんだろうけど、あんたらその場にいたら10人中9人が逆に迫害する側に立ってるだろうよ・・・みたいな。でも認めないんだろうなぁ、ユダヤ人だからそんな罪深いことをしたんだ、とか言いそう。いわゆる「信者の魂」というらしいんですが。
子供やその親がいじめで自殺した・・・なんてニュースを見れば、「いじめた連中を厳罰に処すべき!」と言うだろうけど、多分実際に当事者になっていればいじめる側に回ってるだろう、もしくは現に誰かをいじめたり陰口などで暗にいじめに加担している人間も多いだろうという(^^;)
それはともかく
ふと第27曲のレチタティーヴォと続く第28曲のコラール(リリング版でのナンバリングによる)の「死の苦しみの杯」のくだりで思い出したのがFateシリーズの聖杯。究極の願望実現器のはずの聖杯の実態がこの世の人間の欲望と呪いを垂れ流す忌まわしい兵器だったというのは、いったいどういうひねくれ者の解釈なのか?と思ったんですが、ひとつにはギルガメッシュの理屈のように突き詰めて考えれば、或者の究極の願いを叶えるとすれば突き詰めて考えた場合、他者をことごとく滅ぼすことにつながらないか?とも考えられなくはないですが・・・
もしかしたら「マタイ受難曲」の(マタイによる福音書ではなく)「世の罪の注ぎ込まれ、悪臭を放つその杯」と同じ発想、もしくは「マタイ受難曲」そのものから受けたインスピレーションが元になってるのではないかと。
伝説も含めてイエスの最後の晩餐以降、刑死まで杯が幾つか登場してますが、聖杯伝説の聖杯とはそのうちの一つもしくはイエスが最後に葡萄酒を飲んだかもしれない杯、ともしかしたらそのものがイエスの血を受けたかもしれないという後の聖遺物がそれだという説。
そちらは少なくとも実体のある杯ですが、もうひとつ抽象的な杯、神から差し出された己の死という試練を杯と呼んで願わくば取り去り給えとイエスが願った杯。
Fateシリーズの聖杯はまさしく「世の罪の注ぎ込まれ、悪臭を放つその杯」でした。魔術師が根源へ至る入り口、というよりも。
このセリフは福音書にはなく、受難曲の歌詞としてあるんですけど歌詞自体は多分当時流布していた聖書の解釈、聖職者の書いたものなどを使うよう決められていたんでしょう。
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