Blog:Neutron Star

tma1のブログ

「フランケンシュタイン」

読了しました。「フランケンシュタイン・コンプレックス」という言葉、wikiで見ると正に“創造者が被造物に抱く恐れ”を意味しているようで、人間と原水爆などの核兵器(「原子核」兵器)の関係を表すのに適した概念だと思います。


フランケンシュタイン」といえば私もボリス・カーロフの映画を含めて怪物映画をいくつか見たことがあります。子供の頃、紹介映像を情報バラエティ番組?で見て印象的だったのは「悪魔のはらわた」(^^;)色々と子供心に衝撃的でしたw


原作小説を読んだのはこれが初めてかも知れません。子供向けのダイジェスト、「世界のモンスター」のような児童書でエピソードは知っていましたが。


今回読んでみて、ビクター・フランケンシュタイン、博士でもない学生の身だったこと、怪物創造の場所や場面の描写が簡素すぎること、自分が創りだした怪物を嫌悪・忌避するのが早すぎることなどが特に印象に残りました。


ホラー映画というか怪物映画だとおおよそ、フランケンシュタイン博士が墓を暴いたりして死体を集めて繋ぎ合わせ、雷の電力を集めて怪物に生命を与えることに成功するが、怪物の無垢な心の行いがあまりの怪力ゆえにあるいは制御ができずに人に危害を与えることになってしまい、フランケンシュタイン博士が抹殺を決意する・・・みたいな感じだと思いますが、原作だと死体集めにしても雷の利用にしても具体的に書かずに暗示的でした。これは執筆当時の時代の感性からすれば当然かも。現代のようにエロ・グロをあからさまに書けない時代もあったわけですから。


それにしても、原作ではフランケンシュタインは怪物に生命が宿ったのを見た瞬間、その「醜さ」故に嫌悪のあまり怪物を放置して逃げ出したんですねぇ。これが一番、インパクトがありました。神の領域を侵した行為だということで神への畏れも口にしていますが、それよりもいびつに歪んだ軆、黄色い潤んだ瞳、顔つきの邪悪さなど、自らが与えた怪物の容姿を嫌悪する気持ちが最も強かったんですね。


怪物の体を形作っている時に当然見ているはずなのに、生命の兆しが見えた瞬間に嫌悪するとは何とも身勝手な・・・。自分の作っているものの危険性など眼中に無く、ただ理論の実証だけが目的で熱狂的に作業を進めてきたものの、いざその完成体がどれほどの威力を持っているか確認した瞬間から怖れ始める・・・「ゴジラ」の芹沢博士、原水爆の開発提唱者の矮小な戯画がここにありますね。

被造物の創造主への憎悪

フランケンシュタイン・コンプレックス」の概念は主に“創造者が被造物に抱く恐れ”を表すようですが、“被造物の創造主への憎悪”は含まれないんでしょうか?


醜い容姿で造られた怪物はその容姿のせいで、何も悪いことをしていないのに人に疎まれ迫害されて遂に残虐な復讐者になってしまうわけで、創造主のフランケンシュタインを憎悪しています。が、同時に唯一自分の存在の由来と境遇を知る人間として、また復讐の対象として生きる理由を依存している部分もあるように見受けられます。この辺りが、私にはこの作品の魅力に思われました。


これは例えば不幸な親子関係のパターンとして見ても、なかなか興味深い。


容姿、遺伝病、家計の貧しさ、劣悪な家族関係などなど子供が親を恨む場合の理由はいくらもありますし。親子で殺し合うようなことまでに発展することも。


一方で、被造物の創造主への憎悪や怨恨を宗教的に捉えると、「おまえはおれの創り主、だがおれはお前の主人だ―従え!」などは大胆な考えに思えますが、19世紀の文壇では流行だったんでしょうか?それについても興味が出てきました。

フランケンシュタイン・コンプレックス―人間は、いつ怪物になるのか

フランケンシュタイン・コンプレックス―人間は、いつ怪物になるのか